「せんせ、ピアノ弾いてっ!」
「え゛っ!?あ、えーと…ちょ、ちょっと待っててね?」
くいくい、と服の裾をひっぱる小さな手。
その手を、包み込むように見せて離させると、銀次は職員室へと走った。
「あ、あの…今、時間空いている先生っていらっしゃいますか…?」
…いないよね…。
普通の先生なら、今頃自分の受け持つクラスの子供たちと楽しく愉快に遊んでいるはず。
…でも、銀次はそうはいかないのだ。
「はぁ…。やっぱダメ、かなぁ…」
大きな溜息を一つ。
…銀次には、うまくいかない致命的な理由があった。
「ピアノ…どうしよう…」
そう、銀次はピアノが弾けないのだ。
保育園の先生としては、やはり必要な技術であり…。
しかし、銀次は弾けないのだ。
なのに何故、先生に採用されたかというと…
園長先生に気に入られてしまったから。
銀次自身も、何故自分なんかが先生になれたのか不思議でたまらない。
なんの技術も持っていないし、ただ子供が大好きなだけ。
…なのに、この保育園の園長、赤屍園長は銀次を先生として受け入れた。
「うーん…困ったなぁ」
でも、先生になったことを後悔はしていない。
子供と一緒に入れるのは楽しいし、元気をもらえるし。
大変なこともあるけれど…何だかんだで、かなり毎日充実しているのだ。
「っていってもなぁ…ピアノばっかりはなぁ…」
どんなに楽しくても、ピアノばかりはどうしようもない。
子供達には悪いけれど…諦めて教室に戻ろうと、踵を返した、その時。
「銀次くん?どうかしたの?」
後ろから、柔らかく響く優しい声。
「雪彦くん!」
弥勒雪彦。
彼は、兄と一緒にこの保育園に勤めていて、とても評判の良い先生だ。
若いのに面倒見が良く、子供にも保護者にも好かれている。
「ふふ…また"アレ"?」
「え…えへへ…、そうなの…」
銀次がこのコトで困ったのは、今に始まったことではない。
前々から他の人たちに手を借りていたのだ。
「やっぱりね。君のクラスの蛮くんに、『銀次が困ってるから、職員室に行け』って言われたんだよ」
タメ口だし、銀次くんの事は呼び捨てだし、命令口調だし…色々驚いたけどね、と雪彦は笑った。
「え…蛮ちゃんが?…そうなんだ…」
『蛮ちゃん』とは、もちろん蛮のことである。
――蛮は、同じクラスの子たちとは全く関わりを持とうとしない、幼いのに冷たい子。
…と思われがちな子だ。
しかし、本当は優しくて仲間想い。
何故か銀次だけに懐き、何度も銀次を助けてくれるのだ。
「さて…じゃぁ、銀次くんのクラスに行こうか。ピアノ、僕が弾くからさ」
「うん!ありがとう!」
そうして、二人は教室へと向かった。
…その様子を、壁の影からそっと見ていた一人の人物。
「よし…どうにかなったか…。雪んこめ、イイトコ取りやがって…感謝しろよコラァ」
…どう考えても、幼児の発する言葉とは思えない台詞。
だが、それが蛮なのである。
「おっと…そろそろ教室にもどっか…。また銀次が泣いちまう」
これは、この前本当にあったことで。
暇で暇で仕方無くて、ちょこっと教室を抜け出した時。
蛮がいなくなったことに気付いた銀次は、
『オレがちゃんと見てなかったからだぁああぁ…!!』
と大泣きしながら園内を走り回り、蛮を探しまくったのだ。
そして、それに驚いて姿を現した蛮。
それを見つけた瞬間、銀次は蛮を抱きしめながら再びわんわん泣いた。
銀次に抱きつかれたのはいいとして…あの時の周りの視線は相当痛かったな…。
「あ、あれ?蛮ちゃんは?」
しかし、蛮の行動が少し遅かったのか。
教室に戻った銀次は、すぐに蛮がいないことに気付いた。
「雪彦くん!オレ、ちょっと蛮ちゃん探してくる…!」
叫ぶようにそう言い残し、銀次は教室を飛び出した。
――やだ…また、オレのせいで蛮ちゃんが…!
…銀次の心の中には、それしかなかった。
もし、蛮に何かあったら。
もし、ケガでもしていたら。
もし、園内から出ていってしまっていたら…。
「蛮ちゃぁん…!」
おねがい、無事でいて…!
と、その時。
「銀次!」
コドモにしては低く、落ち着いた声。
今、一番聞きたかった声…。
「お前…また泣い、!?」
振り返った銀次の顔を見て、蛮は溜息を一つ。
しかし、その後の銀次の行動に、蛮の言葉は切れた。
「蛮ちゃぁん…!よかった、良かったよぅ…!おれっ、オレぇ…ほんとに心配、して…!」
まるで、コドモが親に縋るみたいに。
…本当は、逆なのだけど。
銀次は、蛮を抱きしめ、その小さな存在を確かめるように泣いた。
「…銀次。その…悪かった…な」
以前にもあったこの状態。
いい年して、お前が泣いてどうする!と怒りたくもなるが…
自分を心配して泣いている。
そう思うと、自分よりもいくつも年上の彼が、とても可愛くて仕方がない。
「ほんとだよぅ…も、いなくなんないでね…?こないだだって、すっごくこわくて…」
「…あぁ…もういなくなんねーよ…」
保父さんが園児に抱きつきながら大泣き。
園児が保父さんを宥め、呆れながらも微笑を浮かべ。
どう考えても立場が逆な二人は、周りから見ればそれはそれは可笑しな光景だろう。
それでも、マセているのか、元々こういう性格なのか…。
妙にオトナな蛮は、『保育園、卒業したくねー…』と思ってしまうのだった。
そして、幾月が過ぎ。
蛮が保育園を卒業し、小学校へ入学すると同時に。
蛮が通うこととなった学校に、銀次が新しい先生として採用されることになるのは、…もうちょっと、先のお話。
-end-
ちょっと仔美堂さんが大人すぎたかな…?でも美堂さんはちっちゃい時から銀次を狙っていたはずです(笑)360様ありがとうございました!
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